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はじめに
10年前の2014年10月。トルコのイスタンブールで開催されたIFOAMの世界大会で、ひとりの日本人男性が会場の演壇に立った。福島で有機農業を営む菅野正寿(Seiju Sugeno)さんだ。

彼は「原子力発電所は人や有機農業とは共存できない」と聴衆に訴えた。そして「有機農業こそが放射能に汚染された土地を回復させる」と、自分たちの取り組みを世界に伝えた。彼の呼びかけは「福島アピール」と呼ばれ、満場の拍手で採択された。福島原発事故から3年半後のことである。
私たちIFOAMジャパンは、10年後のいま、 日本と世界の有機農業関係者に、ぜひもう一度この「福島アピール」に注目してほしいと願う。
なぜなら、2024年12月17 日、日本政府が原発依存のエネルギー政策を再び打ち出したからだ。日本では、2011年の東日本大震災とそれに続く原発事故以降、原発に対しては、「可能な限り依存度を低減する」との方針を取っていたが、一転この方針を転換し、原発を主力電源のひとつとして「最大限活用する」と、明記したのである。
どうやら日本政府は13年前の福島原発事故による放射能汚染の惨禍を、遠く過ぎ去った「過去の物語」として葬るつもりでいるようだが、それは許されることではない。停止した原発はいまなお放射能汚染物質を除去するメドさえ立たっておらず、避難先から自分の家に帰れない人びとがまだ大勢いるからだ。
放射能汚染は決して「過去の物語」ではない。これからも続く「現実」なのである。
だからこそ、その渦中から立ち上がり、「未来へつながる物語」を紡ごうとしている福島の人びとの営みに、今一度注目してほしい。とりわけ有機農業者や再生可能なエネルギーの普及に取り組む人びとの実践に。
トルコ大会で採択された「福島アピール」には、そのエッセンスが刻まれている。それは「有機農業こそが放射能に汚染された土地を回復させる」という経験に根ざした強い確信である。あらためて世界の人びとに目を通してほしいと願う所以である。

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以下は、2024年12月8日~9日、IFOAMジャパンのメンバーが福島県二本松市の菅野正寿さん宅を訪問し、インタビューした際のレポートである。本文は日本語原稿とともに英文(準備中)を用意した。「福島アピール」の「今とこれから」を理解する一助にしていただければ幸いである。
2011.3.11福島原発事故:核の壊滅的な影響の世界的な象徴
世界の人びとは2011年3月11日を覚えてくれているだろうか。この日、日本では最大級の地震のひとつが東日本を襲った。破壊的な大地震とそれに続く大規模な津波のエネルギーが日本を代表する原子力発電所群である「福島原発」を直撃した。
福島には全部で10基の原子炉があるが、このうち3つの原子炉でメルトダウン(炉心溶融)が発生し、放射性物質が大量に環境中に放出された。 周辺の12の市町村に避難指示が出され、最大で16万4865人が避難を余儀なくされた。同時に周辺地域のあらゆる産業が放射能によって壊滅的な打撃を受けることとなった。原子炉はその後すべて廃炉の運命に至っている。溶けたウラン燃料などが冷えて固まったものを「デブリ」というが、これは今も格納容器の中からまったく取り出せていない。
原発事故後の農業、漁業、環境復興における継続的な課題
そのなかで、農林水産業が最も深刻な影響を受けたことは言うまでもない。多くの田畑が放射能汚染によって耕作できなくなった。耕作可能な田畑では、農民たちは残留放射能の数値とその後長く闘うこととなる。
飛散した放射性物質のうち、半減期が比較的長いセシウム134、セシウム137への対応が大きな課題だった。「表土の削り取り」、「ひまわりによる放射性物質の吸収」、「塩化カリウムによる作物への移行の抑制」などが試みられた。除染ができた田畑も増えたが、今だに耕作ができない田畑も残っている。
山間地の除染は技術的にも難しい。国土の7割が山間地である日本は、昔から近隣の山間地(日本語で里山という)を利用して生きてきた。放射性セシウムは表層に蓄積されやすいことがわかっているので、落ち葉をたい肥に使用するという、従来の方法は困難となった。
慣れ親しんだ野生の山菜などの汚染はいまだ全容が解明されていない。当然ながら、原木を活用してシイタケを栽培する農家は全滅した。
農業用水や飲用水の水源となる川からは通常の飲料水の基準を上回る放射線量は検出されることはなかった。これはその後の調査でわかったことだが、ダムの底泥に放射性物質が閉じ込められた結果、川からの流出が極めて低く抑えられた。これは“不幸中の幸い”であった。
一方、海の汚染は深刻だ。メルトダウンした原子炉のウラン燃料は溶けて、今も温度を下げるために冷水をかけ続けている。当然使用された水は放射性物質で汚染され雨水などと混ざって、毎日約90トンずつ増えていく。この「汚染水」は一定の処理を施され、海へ放出される。政府はこれを「処理水」と呼び安全性に問題はないと言うが、それでもトリチウムのモニタリングは今も継続して行われている。日本国内では政府の言うことに疑いを持つ消費者も少なくない。

原発事故からの復興に立ち向かう:菅野さんの物語
にもかかわらず、政府は再び原発を推進するエネルギー政策への転換に踏み切った。福島の惨劇を忘れたかのような政府の”変節”に、多くの人々が憤っている。福島原発から内陸の50km圏内に位置する二本松市で農業を営む菅野正寿さん(66歳)もそのひとりだ。
菅野さんは、36年前からこの地で有機農業に取り組んでいる。現在は、米、野菜、豆類などを作り、夫婦で餅や赤飯などを販売し、都市住民の農業体験のために農家民宿を提供している。
原発事故の直後、放射能汚染を避けるために原発周辺地域の住民たちが二本松市に避難してきた。その数は菅野さんの住む二本松東和地区だけで1500人、二本松市全体で3000人にも及んだ。そのため、菅野さんたちは彼らの支援活動に明け暮れた。
一方、菅野さん自身の田畑の作物は出荷停止となり、農民は農作業を控えざるをえなくなった。 「自分たちの地域が原発事故の影響を受けるなんて思ってもみなかった」と、菅野さんは述懐する。事故直後の3月下旬、ひとりの有機農業者が自殺に追い込まれた。彼の出荷目前のキャベツはすべて汚染され全滅した。30km圏内では営農の希望を断たれた酪農家が自ら死を選んだ。彼は遺書に「原発に負けないで」と書いたという。痛恨の思いであったに違いない。
事故後、多くの人々が避難を続けた。菅野さんの近隣でも親類や友人を頼って福島を出る人びとが相次いだ。しかし、菅野さんはふるさとである二本松で農業を再開する道を選んだ。

里山を守る:持続可能な地域づくりへ~菅野さんたちの取り組み
菅野さんのふるさとは、現在5,256人の人びとが住む二本松市の旧東和町地区の中山間地域にある。日本では「里山」と呼ばれる、人と自然をつなぐ「接点」である。山あいの棚田が美しく、夏にはホタルが水田地帯で乱舞する。
菅野さんは、震災前から、東京や首都圏の生活協同組合や消費者グループ、さらには私立学校の学校給食用に有機農業の野菜などを直送していた。消費者と生産者の「顔の見える交流」を大切にしたいと思ったからだ。「農業体験」を通じて都市の消費者との交流活動に地域ぐるみで取り組んだ。農家は直接寝泊りできる施設(農家民宿)を併設するようになった。その数は20軒にも及ぶという。東和地区は「有機農業の里」として、里山ならではの風景と地域の人々の生活に出会える魅力的な地域として知られてようになっていた。

その取り組みは、地域の人びとが協力して周囲の美しい景観と豊かな生態系を維持するコミュニティづくりへと広がっていく。
産業廃棄物の処分場の建設計画があがったときには反対し、オルタナティブな堆肥づくりの施設を提案した。地域の農産物の販売を促進するための施設(「道の駅」と呼ぶ)づくりを呼びかけ、菅野さん自らがそのリーダーとなった。この施設は地域づくりの拠点となり、地域の人びとの貴重な雇用先ともなった。
希望の再構築:有機農業の力が原発事故を乗り越える
しかし、有機農業を軸としたこの多様な「地域づくり」の取り組みは、原発事故で一気に崩壊の危機に直面した。原発事故直後の3月17日、国によって食品中の放射性物質に関する「暫定規制値」が設定され、3月21日から食品の出荷制限が実施された。
その結果、菅野さんが栽培する野菜はすべて出荷停止となった。耕せない、農作業ができない、輸送に使う燃料もない。この頃が菅野さんにとってもっとも苦しかった時期だったが、それでも農作業にはいつでも取り組めるように準備だけはしておいた。
幸いにも、東和地区の土壌の放射能は暫定基準値以下であったため、4月中旬には耕作許可が出た。放射能測定機器を導入し自分たちで汚染の度合いを測り始めた。
チェルノブイリの経験に学び、深く耕し石灰を撒くなど栽培方法の工夫を重ね、検出値を半減させる結果も出せた。このような取り組みに呼応して、日本有機農業学会に所属する新潟大学をはじめとする4つの大学の研究者たちが協力し、水も森林も含め里山を総合的に調査することとなった。
この調査のおかげで、有機農家の田畑の場合、その有機物が放射性セシウムを吸着していることがわかった。後の調査で、特に東和地区の土壌は粘土鉱物が多く、セシウムの作物への移行を抑制するカリウムが豊富なことも分かった。これを菅野さんたちは東和地区の「土の力」と呼んでいる。
4つの大学の研究者たちと有機農家など住民たちは、連携して里山の水源地を含む森林地域、農地の土壌、水、稲、各家庭における食べ物の汚染までをカバーする「復興プログラム」を作成して汚染の実態を解明しようとした。
その結果、土壌の放射能汚染値が高くとも、作物には微量しか移行しないことを突き止めた。原発事故直後でさえ、ND(検出限界以下)の作物があることがわかり、ようやく光明が見えてきた。

福島の夢:子どもたちが自由に田んぼを駆け回る持続可能な社会を築きたい
ところが、放射能汚染に対する消費者の不安はそう簡単には払拭できない。都市の提携先である消費者グループや学校給食などへの販売がストップした。地域づくりの拠点として共同で経営していた販売所(道の駅という)の売上も半分以下になった。
消費者には、自分たちの測定した放射能の数値を公表し、国の基準を下回る作物であることを説明した。土壌の汚染値を下げる生産者としての努力の数々も説明した。
「土壌には確かに放射性セシウムが残留しているけれど、深く耕すことなどによって採れたお米や野からは不検出だった」と説明しても、「しかし、土には放射能がある。いくら生産者ががんばっても福島県産の農産物はやはり子どもには食べさせられない」と消費者に言われた。 それでも菅野さんたちは、ねばり強く安全性を追求する努力を続けた。玄米での全量検査は2013年から続け、その後5年間、いずれの年も99%のND(検出限界値12ベクレル)を達成するまでに至った。

他方、福島では太陽光発電、水力発電、バイオマスなどの再生可能エネルギーに注目が集まった。再生可能エネルギーこそは、未曾有の原発事故を経験した福島にとって喫緊のテーマだった。とりわけ地域社会と共存できる小規模なエネルギーシステムは、菅野さんたちがめざす地域循環型の「ふるさとづくり」にとって、有機農業とともに「車の両輪」となるオルタナティブなシステムだ。
福島ではいま、ソーラーシェアリング(営農型太陽光発電)の取り組みがめざましい。これは、農地に支柱を立てて太陽光パネルを設置し、太陽光を農業と発電とで共有する小規模な取り組みである。2023年で福島全県で123か所あるが、2040年には25,000か所に広げ、県内の30~40%の電力需要をめざす計画だという。 このような取り組みを菅野さんたちは、「人間が大切にされる社会への転換」と位置づける。
原発事故がもたらす禍根は、都市住民と農山漁村との分断を招きながら、今に至る。
原発隣接地域から福島県外に避難したまま帰れぬ人がまだ2024年12月段階でも19,849人もいる。いずれもが農業と漁業の地域に住んでいた人々だ。
原発事故前の原状回復を求めて、「ふるさとを返してください。」と訴える裁判は今でも続いている。
放射線が低減したら生産はすぐ再開できるだろうと思う人はいるだろう。しかしながら一度崩壊した地域社会はそうそう元には戻らない。田畑も長期間放置してしまうと、元のように生産できる状態に戻すことは極めて困難だ。
原発事故は、自然環境と調和した豊かなコミュニティーを作るという営みをいともたやすく寸断してしまうことを肝に銘じなければならない。幸い、二本松市では、科学者たちの類まれな尽力があった。生産者や住民の弛まぬ努力があった。一部ではあるが地域の土壌条件にも恵まれた。そのおかげで農村の再生は進んでいる。
さらに、大量生産・大量消費の都市の生活から離れ、身の丈に合った自分らしい暮らしと生き方を求めて福島に移住し、新たに有機農業に取り組む若者たちが増えている。福島県全域で、ここ数年新規就農者と戻ってくる生産者は、年300人を超えている。
これは大きな希望だ。
菅野さんは言う。「福島の事故はまだ終わっていないが、次の世代に渡すバトンはできつつある」と。彼はそれを「福島の夢」と呼ぶ。その夢とは、子どもたちが自由に田んぼを駆け回る持続可能な社会を築くことだ。
2014年、「福島アピール」のなかで菅野さんは次のように結んだ。 「地域社会で結びついた、原子力発電所のない社会をともに築きましょう。」と。

最後に
日本政府が原発推進へ大きく舵を切る政策を発表したのは12月17日だった。実はその1週間前の12月10日に、広島と長崎の被爆者たちが2024年のノーベル平和賞を受賞した。1945年から長い苦難に満ちた被爆者や市民の闘いが受賞の対象となったのである。この日、ノルウェーの首都オスローで開かれた受賞式で、被爆者たちのネットワークである「日本被団協」の田中熙巳(たなかてるみ)代表は、「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と、力強く呼びかけた。
私たちは、田中氏の呼びかけを支持すると同時に、あらゆる生命が最優先される社会では、原発が解決策ではなく現実的な脅威であり、有機農業こそはそのオルタナティブであると提唱する菅野さんとその仲間たちの努力から学ぶべきではないでしょうか。
IFOAM JAPAN
構成:野田克己、髙橋俊彰 写真:朝倉宏光